2014年1月31日

ニレの仲間、チャイニーズ エルム--- この並木のある通りに8年間住んでた


下の娘が5才、上の娘が9才の時から8年間住んでいた家が面した通りは、住宅地の道としてはちょっと大きめの道路でした。両脇に歩道があって、家々の前庭から歩道にかけてが、子供たちの遊び場でした。

その歩道と道路の間にあった街路樹が、チャイニーズ エルムの木でした。でも当時は、この見事な木の名前を知りませんでしたし、調べてみようとも思わなかったのです。
2014年1月30日 Myra Ave. Cypress, CA
チャイニーズ エルム、日本名アキニレ、 たぶん。
冬の曇り空なので、空も木もぱっとしないのが残念です。



2014年1月30日 Myra Ave. Cypress, CA
道路と歩道の間に植えてあります。



よく育つ木で、長く細い枝から新しい細い枝が伸び出て、それがさらに長く垂れ下がり、木全体が上にも横にも、広がってゆくのです。枝は、もちろん下方向にも伸び、小さい子供が垂れ下がった細い枝をローブのようにつかんで、ぶら下がって遊んでいました。

そして、年に一回、市から枝刈り車(仮称)がやってきて、街路樹として格好がつくように、つまり、人や車や電線の邪魔にならないように、伸びすぎた枝を刈り込んでゆきます。

このブログを書き始めてから、街路樹の名前を調べることを思い立ったとき、まず知りたいと思ったのはこの木でした。そこで、ネットで、街路樹の写真を色々見てみましたが、いくらなんでも、そんなことでは見つかりません。


それで、今日、我が家のあった通りにもう一度行って、木を見てきました。幸い、剪定はしばらくしてないようで、手の届くところまで下がっていた枝を一本折ってきました。



上の写真は、昔、我が家があった道路で写したものです。
下の写真は、折ってきた枝。脇から次の若芽がでてます。



さあ、その枝を頼りに、調べました。

日本語の “樹木検索くん” (→ ここ)というのを見つけました。本当に、便利なものがあるのですね。ビジオさんという方が個人で作られたとのこと、ありがとうございます。


そこで、特徴を選んでゆきます。落葉樹、高木、単葉、葉は小さくて、楕円形、鋸歯あり、葉脈は羽状、主脈一本、樹皮はがさがさ程度、まだら模様がある.....アキニレ、ケヤキまで絞られました。

実は、常緑樹か落葉樹か決められなかったので、両方試しました。あとで分かったのは、Semi-deciduous (準落葉性とでもいうようなもの)、つまり、葉の無い期間がごく短く、葉が落ちたときには次の芽がもうついている、なのだそうです。



それから、駄目押しで、オレゴン州立大学のサイトにある検索(→ ここ)を試しました。
これでは、Elm(Ulmus)と出ました。ニレの仲間のこと。
オレゴンはカリフォルニアよりずっと北にあるので、あくまでも参考ですが。


それから、おなじみCal Poly San Luis Obispo のサイト(→ ここ)で ニレ(elm)とケヤキ(zelkova)を調べた結果、ニレ属Ulmus )と見当をつけました

さらに、枝が垂れる(droop)か垂れないか等参考にして、たぶんこれでしょう、というのがUlmus parvifolia(→ これ)。 英語名Chinese Elm、日本語をしらべたらアキニレ。最初の、“樹木検索くん” にあった名前でした。


さらに駄目押し。
ロサンゼルス市は、さすがに大都市だけあって、街路樹についてもいいサイトがありました(→ ここ)。市が街路樹として認めている木のリストです。

その中で、Elm の仲間は、Chinese Elm だけ。
そこに出ている写真(→ これ)も、ああ、これこれ、というなじみの姿でした。

ほんとうは、亜種だか品種だかまであるのでしょうが、私はそこまではできません。

で、Chinese Elm と決定。

なんだか、邪道の植物探索ですが、あくまで、種類が限定されている街路樹なので、これで良しとしましょう。



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2014年1月28日

我にもの言う木、レモンユーカリ


とにかく群を抜いて背の高い木。でも、威圧感とは全く無縁の木。

公園や学校など広いところによくこの木を見かけますし、街路樹としては、大通り沿いに植えてあります。

葉はこんもりしてなくて隙間が多く、全体にひょろひょろとしていて、むしろ頼りない感じ。

実は、私はこの木が好きです。この木を見上げると、木が隙間から私に何かを語りかけるように思えるのです。

広い空の下の小さな私に、捉えどころが無いながら、何か確かなことを言い掛けてくれてる。力が抜けるような、あるいは力が来るような。



先日の夕方に、隣のコミュニティカレッジで撮ってきた写真です。夕方のさびしい空の広さ、ユーカリの頼りない感じが伝わるでしょうか。

2014年1月 Cypress College




木が語りかけるような気がするのは、見上げるという動作と空の広さが引き起こす錯覚なのでしょうけど、それでも、そんな気持ちが引き出されるのが気持ちがいいので、何とか言葉を捕まえようとしたりします。


この木が、ユーカリの仲間だということは知っていましたが、ちゃんとした名前は知りませんでした。前回、梨の花(→ここ)を調べた、Cal Poly San Luis Obispo の、 Urban Forest Ecosystem Institute のサイトでEucalyptusと入れてみたら、ずらっと仲間の木が出てきました。

我にもの言うユーカリは、割と簡単に特定できました→これ
(このリストに載っていない別の木の可能性が無いわけではありませんが、それは追求しないことにします)。

学名 Corymbia citriodora、英語では Lemon-scented Gum(レモン-センテッド ガム)、日本語で レモンユーカリ。

常緑樹。オーストラリア北部原産。スモッグに強い。そのせいか、フリーウェイの脇によく植えてあります。

高さは80から160フィートになるとあるから、25から50メートルということ。本当に? とんでもなく高い。

葉っぱや花の写真は、上記サイトでご覧下さい。とにかく高くて写真が撮れません。

幹は、目だって美しく、クリーム色、ピンク、淡いグレー、または、まだら模様。表皮が剥がれつつあるか、つるつるである、とのこと。
つるつるの幹は、写真のように人肌のようなしわががあって、なにやら可笑しい。


















葉っぱにレモンの香りがあると書いてありました。知らなかった。

木の近くに立っても、葉っぱにはとても手が届きません。地面をみると、ちらほらと落ち葉が散っていたので、その中で多少緑色の残っているのを拾って、半分に折って鼻に近付けると、確かにユーカリの香りと共にはっきりレモンのようなツンとした香りがします。清涼感のある匂いで、鼻の下にずっと貼っておきたいと思うほど。茶色くなった葉っぱを拾っても、ちゃんと匂いがあります。

他の種類のユーカリも近くに生えているので、やっぱり落ち葉を拾ってにおいを嗅いでみました。いい香りだけど、レモンの香りではありませんでした。

いつか、いろんな種類のユーカリの葉を集めて、匂いで種類当てなんてしたら面白いでしょう。





2014年1月24日

街路樹、Pear Tree --- 春を告げる梨の花

当地、南カリフォルニアは気候が温暖です。 何度も書いた気がしますが、こう書かないと話が始まらないのです。

で、温暖なので、1月も後半になると春の気配を感じます。クリスマスの頃に比べて確実に日が長くなり、陽射しが確かに強くなり、住宅の前庭にパンジーやポピーが賑やかな色どりで咲きます。

その中で、私の基準で、最もくっきりと“春”と告げるのは、梨の花、Pear tree の白い花です。1月も半ばを過ぎると咲き始めます。街路樹として大きく育ったこの木の花は本当に見事です。


 
ただ、今冬は異常に気温が高く、かつ雨が少なく、残念ながら例年のような花盛りになっていないようです。

うちの近所の若木がわりとよく咲いていたので、写真を撮ってきました。
2014年1月 Cypress Community Center








(1月25日追記:よく観察してみると、花がきれいに見えないのは、葉が残っているせいと思います。例年、冬の雨風に打たれて、どんどん葉が落ち、花の頃にはほとんど残らない、または、全く葉がなくなっているのが普通なのです。)



さて、ネットで街路樹の情報を探していて見つけたのが、Cal Poly San Luis Obispo という、カリフォルニア州立大学の、 Urban Forest Ecosystem Institute のサイト。 (→ここ )

大学の情報なので、信頼性が高そう。
(追記:上記ウェブサイトの下のほうに、極々薄くて小さい字で、ここに書いてあることの正確さは保障しません、この記事のせいでこうむった損害に責任を持ちません、とのこと)

  
もし興味がおありなら、
Enter a tree name” というボックスに “pear” と入れて “Go” をクリックすると、梨の仲間の木がずらっとでて来ます。 


それによると、実ではなく花を楽しむのは、どうも Pyrus calleryana の仲間と思われます(Pyrusはナシ属を表す)。

その中に、さらに亜種(または、品種)がいくつもあります。たとえばEvergreen Pearをクリックすると(→ここ)、私の写真よりずっときれいな梨の並木が見られます。

私が見た梨の花が、それらの亜種のうちのどれなのか、名前をはっきり特定するところまでは、私にはわかりません。おそらく、並木により異なるのではないかと思っています。







街路樹の名前を調べることにした

これからちょっとづつ、街路樹になっている木の名前を調べてみることにします。

そんなブログ記事を見てくれる人がいるかどうかは気にしないで、興味があるので、ちゃんと調べて、自己満足より上のレベルを目指そう。

エルドラドパークのことを当ブログに書いて以来、自分は、“自分が住んでいる地域の木の名前をほとんど知らない” ことがとても気になりだしました。

ジャカランダとかユーカリぐらいは分かるけど、そのユーカリでも何種類もある。針葉樹の仲間だと思われるものも種類が多そう。とにかく、手始めに日ごろ目にする木々の名前を調べてみるのは面白いかもしれない。

ちょっと調べてまず知ったのは、普段目にする木々は、土地の固有種(native plant)ではなく、外国産(中国だの、南米だの、オーストラリアだの)がほとんどということ。スーパーマーケットの野菜や果物と同じ。とすると、いわゆる植物図鑑ではカバーしきれないかもしれない。カリフォルニア南部沿岸部の、自生種と外来種と園芸種を網羅したようなリソースは(ちょっと調べただけだけど)見つからない。

その中で街路樹は、種類に限りがあるし、市がコントロールしているので名前も見つけやすそう。市によっては写真付きのウェブサイトまである。手始めとしてよさそう。

街路樹というと、同じ種類の木が道路沿いに続けて並んで植えてあって、それぞれの木の性質によって、それぞれの雰囲気がが出る。花が見事な木、春の若芽がまぶしい木、茂った豊かな緑が逞しい木、秋の紅葉がきれいな木、落葉して枝のシルエットが目立つ木、などなど。木の種類と季節の移り変わりで様々な表情がある。よく見かける分だけでも名前が分かると楽しいと思う。

ぼちぼち、やって行きます。それと、あまりいいカメラを持ってないので、写真のクオリティは御容赦を。いいカメラを手に入れるのもそのうち実現するといいな。






2014年1月19日

40日目の感想

昨夜の投稿は、一日経ってもページビュー(PV)がゼロ。タイトルや内容によって、ずいぶん違うことがわかる。とは言っても、まだ私のブログの訪問者は リファラ スパム様がほとんど(以前の投稿で書いてます→ここ)。 

でも、工夫したときは、本物の訪問者様はちょっと増えました。なので、今は学習のときと思い定めて、試行錯誤を繰り返しながら内容のある投稿を心がけることにします。

Blogger の説明をちらっと見ると、リファラ スパムは、実際のページを見てはいないのだそうです(訪問することと、ページを見ることとどのように違うかは分かりませんが)


ダッシュボードの“統計” の中の “概要” や “トラフィック” に表示されている数値はリファラ スパムも加算されていますが、“投稿” の、投稿ごとのPVは本当に見られた数値が表示されているとのことです。

ところで、自分のブログを自分で見た分をPVとしてカウントしないように設定する機能があります。 “自分のページビューを追跡しない” というのをクリックするとできます。それを設定しているのですが、なぜか、いつの間にか、カウントしていることがあります。訪問者が少ないので、影響が大きいのです。 根本的対策ではありませんが、ダッシュボードを開くたびに、駄目押しでこの設定をくりかえしてます。(ブラウザのHistory の掃除をすると、そうなることがわかりました。普通は大丈夫。)


“検索設定” というのを、今日、いじりました。正確には、検索設定の中の “メタタグ” というところに、ブログの説明を加えました。 誰かが、その説明文に使われた言葉を使って検索すると、我がブログが検索結果に登場することになる、らしいので。

その説明文を書くのに、しばらく考え、中高年とかアメリカ生活とか入れました。 自分のブログをどどんな物にしたいかは、始めから考えてはいたものの、改めて言葉にすると月並みすぎておののきます。実際、それらの言葉を使って検索してみましたが、我がブログ見当たらず。 

自分のブログをどうしたいのか、どんな人に読んで欲しいのかを、真剣に問い詰めなくてはならない。そうしたらユニークな説明文が書けるでしょう。
まあ、いまのところは仕方が無い。いろいろ試しているうちに、学んだり気づいたりが増えるのだから。


また、肝心の投稿内容については、あれこれ読み返して考えることがたくさんあります。

自分の考えが、読む人に無理なく伝わるような書き方をしているか、という視点でみると、恥ずかしくなる投稿もあります。たとえば、昨日の投稿はそれ。自分の思いを、他人の頭の中に再現してもらうためには、もっと工夫が必要でしょう。詰めも甘くて、後半の言葉不足が目立ちます。

だだ、あれはあれで、長い間言葉に出さないで抱いていた思いをあそこまで文章化したのは、私にとっては大きな一歩だったともいえるのです。読まされた人には迷惑かもしれませんが。次には、そこから内容も表現も進めて、もう少しマシなものを書きたいです。(3月21日追記:上記の記事は、熟慮の末、削除しました。)


ブログの畑に言葉の種を蒔ている、という言葉が浮かびました。頭の中からこぼれてブログの畑に落ちた思いは、まだ何になるかわからないような種ですが、確かに何かに育つと信じたいです。


ブログ開始後、40日経った経過報告と感想でした。



2014年1月15日

the や a の使い方の勉強をして、あることに気がついた

英語のなかで最もよく使われる単語は “the” ということになっているらしい。悲しいかな、私はこのthe の使い方を一生マスターできないと思う。


私の生活は英語漬けではないにしても、仕事で何かを説明するための文を書くことがあるし、個人の用事で問い合わせや苦情のメールなどを書くこともある。
 
そういうとき、幸いなことに、今は次女(21才)が同居しているので、出来上がったものを彼女に見せて最終チェックを頼む。すると、嫌になるほど毎回 the や a 関連の訂正がある。

ESLの英語の先生が、冠詞の用法 (a/an, theをつけたり、つけなかったり) は、アジア人にとって難しいと言っていたのを思い出す。 さもありなん。 

最近思い立って、昔の文法の教科書を引っ張り出して冠詞の章を開いてみた。改めて読んでみれば、以前より良くわかるような気になる。the や a の使い方がマシになるかもしれないと希望を持てる。

昔の鉛筆の書き込みを消しゴムで消して、真面目に練習問題をやった。半ページ分ぐらいの文章があって、それに冠詞の間違いがわざと入れてあり、見つけて訂正するという練習だ。章の中が、いくつものレッスンに分かれていて、練習問題がその都度でてくる。ためになる。なるほど、なるほど。


さて、いくつも練習問題をやってるうちに、ひらめいた。間違いを訂正できるということは、間違った冠詞を使った文でも意味が通じているということだ。 文の全体の意味がわかるからこそ訂正できるのだ。 

いつもながら、娘に聞いてみた。突飛な質問だったので意味が伝わるまでちょっと時間がかかったが、答えはあっさり、“そうよ”。the や a の使い方が間違っていても、わかると。

つまり、冠詞ごとき細かいことが的外れでも、もっと強い力のある名詞や動詞が本来の意味を運んでいるということか。 

さらに、聞いてみた。私が英語を話すとき、the や a の使い方が間違っているのは、聞き苦しい(annoying)かと。へんじは、“ノー”。
なんとうれしい。過剰に、気にしなくてもいいということか。

日本で外国人が助詞(てにをは)を間違って話しても、意味はわかるし間違いが気になるわけでもないというようなものかしら。



まあ、あたりまえのことだけど、間違いを気にし過ぎないようにします。





2014年1月11日

Cutie and the Boxer (キューティー&ボクサー)観ました

前回、Cutie and the Boxer をまだ観ていないと書きましたが、自分でつけたリンクで映画のトレーラーを見たら、コメントのところにNetflixに出ていると書いてあることを発見、早速観ました。(トレーラーのリンクは → ここ

乃り子さんはお化粧していない、と書きましたが、冒頭でいきなり口紅をつけるシーンが出ました。あらら。でもとにかく、自然に見えます。

キューティーとボクサーとは、それぞれ、妻の篠原乃り子(のりこ)さん、夫の篠原有司男(うしお)さんのことで、ニューヨークに暮らす芸術家。有司男さんの方は、若いうちから名を知られていたようですが、生涯を通じてお金にはあまり縁がない暮らしのようです。

篠原夫妻が、芸術家として生きることと偽りのない生き方をすることの両方を追求して、生活のあらゆる面で摩擦を起こしながら果敢に生きてゆく姿が描かれています。二人の、遠回しだったり、ストレートだったりする本音の吐露は、可笑しくも美しく、心を打ちます。

夫妻と私とで共通点は、ゼロではないにしてもごくわずかです。それでも、二人を通して人間の本当の何かに触れた気になります。この人たちは、真実に触れたことがあるな、人間の存在の深い井戸の底まで下って底に触ったな、と思わせます。

そう思わせるのはこのドキュメンタリーを作った人の力量なのでしょうが、篠原夫妻の人間性と芸術家としてのプライドがあってこその作品の価値であるのは当然でしょう。


ところで、私は、のりこさんの話す全ての言葉、全てのしぐさや佇まいが、びんびん心に響きます。身につまされるような共感があります。 

うしおさんのほうも、映画が良く出来ているせいか、気持ちが理解できる気はするのですが、びんびん伝わるとまではいきません。

これって、男と女のちがいなのかな。我が夫がこの映画を観たら、うしおさんに共感するかな。聞きたいような、聞きたくないような。




2014年1月10日

去年見つけた二人の女性、ル=グウィン と 篠原乃り子さん

自分には共感できる女性が見つからない、と娘に言ったことがある。

身の回りの人のことではなくて、日米のメディアに出る芸能人とか有名人のなかで、ということで。娘に向かっては理由を力説したのだが、今、なぜなのかを書くために考え始めて言葉に窮している。

苦し紛れに考えてみて、多分こういうことかな。 

メディアに表現される対象は、強調されたり、薄められたり、何かが付け加えられたりとにかく加工されているものだが、そうやって作り出された女性達が自分は気に入らない。たとえば、メイクアップや着ているもの、あるいは男性とのかかわりで語られる生活など、たいていは女であることの部分に何らかの強調がされていて、それが強い作為を感じさせ共感できない。 

何かのはずみで娘相手に自論を披露してから、共感できる女性をなんとなく探すようになった。

そして、去年見つけたのが今のところ、この二人の女性。 


一人目は、小説家のUrsula K. Le Guin
日本では アーシュラ・K・ル=グウィン と表記されている。現在84歳で健在とのこと。

昨年はじめて読んだ彼女の作品は、ファンタジー小説 Earthsea Cycle(日本では、ゲド戦記シリーズ)、全6巻。

本当は作者ではなく、この作品に出てくるテナー(Tenar)という女性が私の見つけた女性なのだが、そのテナーを生み出した作者の方に乗り換えることにした。

ル=グウィンは、アースシー(Earthsea)の世界の物語を最初3巻で終わるつもりで書いたそうだ (第1巻-1968年、 第2巻-1970年、 第3巻-1972年)。テナー は、第二巻に 少女として登場し、第3巻には出てこない。

作者も、当初は物語はそれで終わりと思っていたそうだが、18年という長い間をおいて、1990年に第4巻を出版し、我がテナーは中年となって再登場する。このテナーが、私の共感するテナー。

はじめの三つの巻の物語では、大人になる少し前の主人公たちが登場するヤングアダルト向け小説だったのが、この第4巻では、中年女性が主人公になってしまう。 前巻までのファンの趣味に合わないせいか、第4巻は、ネットの評価を見るとあまり芳しくない。でも、私は大人の女性に限ったら違う評価をすると思う。 

アースシーという、ル=グウィンが作った世界は、乗り物は動物が引っ張り、船は帆に風をうけるか人力で漕ぐかで走る。 戦う道具は剣。 そして力は男のもの、女は家を守るもの。その世界に作者はテナーを置いて考えさせ、生きさせる。彼女に 大事件がいくつかおこるが、地味に過ぎてゆく。 

ル=グウィンは、人の営みがシンプルなこの世界でテナーを通して女とは何かを探ったのだと思う。答えの出る問いではないけれど、問うことそのものが答えなのかもしれない。つまり、私はそんな問い方をするル=グウィンに興味がある。


もう一人の女性は、芸術家の篠原乃り子さん、あるいは Noriko Shinohara。
Cutie and the Boxerキューティー&ボクサー)というドキュメンタリー映画に登場する女性。
私は映画は見ていない。知ったときには、もうどこにも上映されていなかったので。

この映画は2013年の サンダンス映画祭 にてドキュメンタリー部門で監督賞を受賞したとのこと。たぶん、その受賞関連の記事が、彼女の写真に遭遇する機会だったと思う。

メディアに出る女性のファッションやメイクアップに嫌な気がしていた私は、まず彼女の外見に引き付けられた。お化粧なし、髪は白髪の三つ編み。年齢は私ぐらいだが、美しい人に見えた。
  
映画のトレイラー をみると 彼女の、ある意味壮絶な人生を通じて身につけたと思われる軽さというか無頓着さが、また魅力的。
よく見れば、彼女はもともとが美人なのだとわかる。私がかっこうだけ真似てもあの魅力は出ないのが残念。

今年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門の候補にあがる可能性があるといわれている。もしそうなったら、劇場でまた上映されるかもしれない。そうなったらいいな。

以上、二人見つかってうれしいです。共感できる女性はもっといるはず。




2014年1月5日

エルドラドパークに行ってきました

近くにある、エルドラドパークのネーチャーセンターに行って 朝の散歩をしてきましたので、写真など御紹介します。


エルドラドパーク(El Dorado Park)は、ロングビーチ市の東端に位置する広大な公園です。


一部はゴルフ場、キャンプ場、野球場、サッカー場などに利用されていますが、池と小川を巡る広いエリアが ピクニックや散策を楽しめるようになってます。


Wikipedia を見てみると、エルドラドパークは、近くを流れるサンガブリエル川(San Gabriel River)が氾濫した場合に洪水になる地帯に位置しているとあります。


ここ南カリフォルニアは、どこでもかさかさに乾いているわけではなく、こういった微小な湿地が点在しており、そういうところは、かつては先住民の集落が栄えたようです。しかし、現代の人間が住むのには向いていないので、ここのように緑豊かな公園として整備されることも多いみたいです。


その公園の一角に ネーチャーセンター(Nature Center)はあります。
面積は約100エーカーとのこと(メートル法で約0.4平方キロメートル余り、正方形だとすると約630m四方)。公園内のほかのエリアよりも草木が鬱蒼とし、うまいこと くねくねと道が作ってあって、2マイル(約3km)のネーチャーウォークが出来るようになってます。




車を公園内の駐車場にとめると、曜日によって$5 から$8 とられます。私は、シニア割引年間パスを$35で購入。元をとらねば。

歩いて入れば無料。


秋に最初の雨が降ると、私は、エルドラドパークのことを思います。
土と緑が匂いたち、気持ちがいいのです。

葉が落ちた木も風情があります。




















冬は赤い実のなる木が 何種類もあります。 名前が知りたい。







道が木のトンネルになっています。






ここは どんぐりの木ばかり、秋に行くと リスがうじゃうじゃいます。今日でも、ちらほら。





リスに、人から餌をもらわないようにと注意。















水辺も美しい。
このネーチャーセンターでとにかく感心するのは、いつ行っても ごみひとつ 落ちていないこと。
水際も 打ち寄せているのは 落ち葉と枯れ枝と水草だけ。
つまり どこにも eyesore がない。





















鴨とサギが一列に並んでいました。



















後ろに回ってみました。





















ネーチャーセンターは、定期的に色々な講習会をやってます。
バードウォチング、夜の動物探索、庭に植えるカリフォルニア自生種の育て方等。
私は、植物の名前を教えてくれるのがないかなー と気をつけているのですが、今のところなし。





2014年1月4日

見上げる羊

南カリフォルニアに住んでいるのですが、近場以外あまり旅行をしたことがありません。余裕が無いからなのはもちろんだけど、あんまり活動的でないので、ついできることもしないでじっとしていることが多いせいでもあります。なので、あっちに行った、こっちに行ったという話題はあまり書けないと思います。

そこで、そのかわりと言っては何ですが、近場で見つけたものを時々紹介してみます。
無理やり感があるのは否めませんが、自分ではすごくいいと思っているものが実はいろいろあります。

今日はその第一回として、一番近くのもの。



アパートの我が家は二階にあり、そして西に向かって小さなベランダがついています。
このベランダは、去年まで雑然と鉢植えの植物や、その残骸つまり土だけ入った植木鉢などが置いてあって、かなり見苦しい状態になっていました(英語で eyesore という)。

唯一、ハミングバード用の砂糖水の入った容器がつるしてあって、これを飲みにく来る鳥だけが見る甲斐のある景色でした。


昨年の中ごろ、一念発起してベランダの大掃除をしました。こびりついた泥をこすり落とし、鉢植えは、一つだけ残してすべて処分。18ドルで買ってきた芝生風の緑色の敷物をセメントの上に敷き、中古のテーブルと椅子をいれました。

これが、本当に良かったのです。きれいになったベランダで食事したり、本を読んだり、さらにお月見の宴(西側なので、三日月の宴)までやりました。小さなアパートに一部屋増えたようなものです。

このベランダから見える景色ですが、改造前はつまらない見る価値もない景色と思っていました。でも、ここでお茶を飲みながら余裕の気分で眺めるとまるでちがって見えるのです。

周りの家々の屋根がいいリズムで連なっているし、斜め前方の道路とその先のコミュニティカレッジのテニスコートは、すっきり広々としています。夜にあちこち明かりが灯るとまた、なかなかいいです。

そして、何より気に入っているのは、というより、ひとり悦に入っているのは、ベランダにいる私を見上げる この羊。













はじめて気がついたのは夜で、メガネをかけてない私の眼で見て、どう見ても白い羊がこちらを見上げているとしか思えないのでした。ノラ羊?

はっきり見えたら魔法が解けると分かっていたので、しばらくそのまま “羊がいるつもり” を楽しみましたが、思い切ってメガネをかけて 大笑いしてしまいました。

昼の光で撮った上の写真で(ピンボケですみません)、灰緑色の四角は ケーブルボックスと呼んでいるもので、AT&Tかどこかのケーブルを どうにかする装置に被せてある箱です。羊の頭にあたる黄色いものは、消火栓の上半分が出ているのです。実際に近寄ると、二つの物体はちゃんと離れているのですが、うちのベランダからは重なって見えます。

夜の写真はうまく撮れなかったのでお見せできませんが、街灯に照らされると光と影の具合で、まさしく見上げる白い羊になります。我がシティに唯一の羊です。無理やりの名物。


ついでに、うちのハミングバード、ハミちゃん。
フィーダーの右側の頭の赤いのが鳥です。翼は動きが速くて消えたようになってます。

うちの 外ペット。

びっくりするくらい たくさんやってきます。
季節によってはこのフィーダーの周りで、大喧嘩がおこります。











では、また何かを探しに行きます。




2014年1月2日

新しい年になりました

心を新たに日々の暮らしを重ねてゆこう。


夕食の前に散歩をしてきました。

我がアパートの前には、通りをはさんでコミュニティカレッジの陸上競技トラックがあり、ここは近隣住人の格好のエクササイズの場になっています。特に早朝と夕方から夜にかけては(数えたことはないけど)多いときは数十人の人が、トラックの線に沿って同じ方向に、走ったり、歩いたりしています。

早足で歩きながら、だんだん暗くなってゆく空の色を楽しんできました。西の空に、白くて細い細い月がかかっていました。

今住んでいるところの どこが好きかというと、空が広いところ。そもそも、この市には、2階建てより高い建物があるのかしら。とにかく、さえぎるものが少なく、空が広い。

それから、冬には雨が降るので、今頃は空気が澄んで気持ちがいいし、木々は雨に洗われ汚れが落ちてほっとしているように見えます。

消えそうに細い月と、暮れゆく空と、くろぐろとした木々を見上げながら歩いていると、頼る人も少ないアメリカ暮らしの不安が心をかすめます。でも、その気持ちと紙一重のところに、ひとり立つ覚悟が隠れているのも本当です。このふたつの気持ちの間を、行ったり来たりしながら今年も暮らしてゆくのかな。


ところで、昨日つまり一月一日に、アパートの住人の女性に会ったら、“ホリデーシーズンが終わって、ホントにうれしい!” と言ってました。

私も同じ気持ちよ、と返したのですが、彼女の理由は、もうこれ以上お金を使いたくないとのこと。親戚が多くて、甥や姪たちにプレゼントが大変なんだそうです。