クリスマスのデコレーションの話と 違和感の話
日本でも今どきは、一般住宅の外観にクリスマスデコレーションを施すことがあるそうですが、アメリカでは、というか少なくとも私の住む南カリフォルニアでは、暗くなってから住宅地を通ると豆電球の飾りで美しく輝く家々が目につきます。
温暖な気候の当地ですが、12月は “寒い” という言葉が出るようになり、5時頃にはもう暗くなってきます。そんな夕方に車を運転していると、ふと寂しい気持ちが湧いてくるのですが、そこで色とりどりの光に浮き上がる家が見えてくると、気持ちが引き立たちます。
ここよりも北の方や東の方のずっと寒い地域では、こんな夜の光はもっと切実に心を温めてくれるものだろうなあなんて思ったりします。
さて、そんな光り輝く家の前を通り過ぎざまに見やると、屋根の上や前庭にサンタクロースやトナカイ、雪だるま、熊さん、ディズニーのキャラクターたち、線路をぐるぐる走る汽車などなどが隣近所と競い合うようにぎっしりと飾ってあります。 こうなるとさっきの寂しい気持ちは蒸発して、まさにホリデーシーズンの熱気に取り込まれてしまうのです。
アメリカに来てまだ数年しか経ってていなかった頃。昼間に住宅地を歩いていると、男性が屋根に上がって、せっせとクリスマスの飾り付けをしていました。 その光景に 例のとてもとても奇異に感じる気持ちが起こったのです。
違和感を感じる自分を面白く思ったので、いまだに覚えているのですが。
現在の私の目で見れば、この男性はクリスマスという舞台の大道具を設置しているのですから、季節の風物詩のような当たり前の光景です。
でも当時の私にとってクリスマスは、宗教的に祝う人たちは別にして、女子供の遊びのようなものという日本で育てた感覚があったのでしょう。それからこちらのクリスマスのデコレーションは、宗教的テーマの飾りを除けば、おおむね幼いデザインです。
だからその光景は “大の男が女子供のなぐさみの行事のために幼稚な飾り付けをせっせとやっている図” にみえたのです。
大人の男は、女子供のように幼稚なことにはかかわらず、もっと価値のあることをするものだ。女子供と男は別だ。と、そんなふうにいつの間にか刷り込まれていたのですね。それで違和感が発生したのでしょう。
思い込みは、それを意識化した時点でパワーを失うものと思っています。
大人の男は、女子供のように幼稚なことにはかかわらず、もっと価値のあることをするものだ。女子供と男は別だ。と、そんなふうにいつの間にか刷り込まれていたのですね。それで違和感が発生したのでしょう。
思い込みは、それを意識化した時点でパワーを失うものと思っています。
(自分の中の 男性観、女性観、人間観 について考えなくてはならないですね。時間をかけてやってゆくつもりです。)
たぶん、まだクリスマスの話題、続きます。
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