2014年6月22日

女性への差別と暴力について、アゴラの記事に心から共感するので、ここに記録を残します。





アゴラ 言論プラットフォーム
2014年6月22日
江本 真弓さんの記事
日本人男性が変わらない限り、日本の少子化は決して止まらない
http://agora-web.jp/archives/1600945.html#more



618日の東京都議会の本会議で、塩村文夏(あやか)議員の一般質問中に発されたヤジに触発されての記事だと思います。また、長く議論が続いている従軍慰安婦問題や、日本の少子化等、ニュースを賑わすトピックに触れてはいますが、本題は女性への身体的/精神的暴力についての意見です。意見というより、怒りの表明だと受け取れます。

多くの女性が様々な手段で表明してきたことで、新しいことではないですが、機会あるごとに世界に向かって喚起してゆくべきことと思っています。


私も、この記事に触発されて、意見を書きたくなりました。
漠然と思っていたことを言葉にするのは本当に難しいですが、この機会を逃すのも惜しいので頑張ってみます。


まず、私がここでわざわざ取り上げる気になったのは、つい先ごろ(5月半ばから6月初旬)90歳の我母と3週間共に過ごし、いまだに疲れが残っており、特に心に響いたからです。

まさに、江本 真弓さんが記事中で書いておられるように、
これら問題の難しさは、権利を持たず弱い女性の立場が、しばしば伝統及び宗教の名目で正当化されていることだ。しかも女性自身が、母から娘へと率先して受け継ぐ。女性にとっても多くの混乱がある問題だ。


娘である私に対して語る我母の言葉は、時として、とても他の人には言わないような粗暴な言葉になります。それは、彼女の中の女性観、家族感から引き出される本音なのだと分かるので、やりきれない気持ちになります。



日々のニュースで繰り返し報じられる世界中の悲惨な出来事を知るにつけ、私は、自分は本当にラッキーだと胸をなでおろします。暴力の被害者になったことがありません。今も昔も厳しい貧困の辛さを味わったことがありません。住んでいるところが戦場になったこともありません。家庭があってささやかな未来を夢見ることができます。

この世はあらゆることが競争で、常にあらゆるレベルで強者と弱者が分割されてゆくように見えます。国家間にも、国家内の住民や人種にも、職業にも、外見や能力にも、家族にも。

強者と弱者の分割は大きなレベルから小さなレベルまで、ありとあらゆる場面で分けられます。私は、日本で生まれ育ち、アメリカに住んでいる。これはかなり有利な条件で、私を強者側に押し上げてくれました(教育を受け、病気・怪我から守られ、かなりの心の自由を手に入れています)。一方、移民で、身寄りが少なく、言葉のハンディがあり、不安定で低賃金の労働者です。これは弱者です。

男女の分割は、それらの中で最も小さい単位の分割で、それ故あらゆるレベルに男女の分割が含まれています。強者内での女性差別があり、弱者内での女性差別があります。最弱者内で起こる女性への暴力は本当に恐ろしく、知ることさえ勇気が要る程です。

一方、先進国に住むことで享受できる豊かさが、どこか遠くに住む弱者の悲惨さの原因になることがあることを自分は知っています。が、日常では、弱者には目をつぶり、いかに自分の立場をより良くしてゆくかの方向を見がちなことも告白します。

この私の態度と、女性差別に自覚が薄い男性の心理は、レベルは違いますが、同根ではないかと思い至りました。

性別を意識しないで世界の不条理を語ることと、女性への差別を語ることが重なったり、離れたりして、少なくとも私の中では混乱が生じます。よく理解するよう、心を砕くべきでしょうね。

どうしたら良いのでしょう。混乱のことではなく、差別のことです。

私は、自分の娘たちに幸せになって欲しいと願います。一見、無邪気な思いです。ですが、この競争社会で勝って弱者を蹴落とせと言うのと同じ意味にならないようにするにはどうしたら良いのでしょう。

私には、気の利いた提案がありません。
ただ、個人として、人間の生存や競争について自分の言葉で語れる見識を持たないといけないと思っています。



消化不良の文章であることを認めます。
でも、今は、これで終わり。




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