2015年1月27日

絵を見て泣いた話


もう、三十年くらい前のことなのですが、絵から強い衝撃を受けた経験があって、今回は、そのことを書きます。(チェコ好き)さんという方の記事を読んで、自分の経験を記録したくなったのです。

(チェコ好き)の日記
 2014年12月19日
「好き」「嫌い」をこえた芸術鑑賞法があるとしたら

後半の、「審美眼」とは何か というサブタイトルのところの一部を引用します。
私が考える本当の意味での「審美眼」は、「みんなが同じように美しいと思うもの、だれもが同じように高く評価するもの」を見極める能力のことではありません。「自分のためだけに作られたものが、自分のためだけに発しているメッセージに気付く」能力のことです。
例えばですね、何の知識も持っていない、作品の背景もまったく知らないはずなのに、「好き」とか「面白い」とかいう感情の何百倍も強い引力で、自分に “語りかけてくる” 作品というのがあります。
......... 
 しかし何であれ、それはあなたのための作品です。目が合います。あなたのことを、家族よりも、恋人よりも、友人よりも、その作品は知っています。

あれは多分1980年代の後半、友達とスキー旅行に行った帰途、乗り換えの時間があったので、その場の思い付きで東京上野の国立西洋美術館に入ったのでした。

軽い気持ちで展示物を順次ながめて、その絵の前に立ったとき、まさに見た瞬間に涙が噴き出したのです。友人が一緒だったので、そんな自分を見られるのが恥ずかしく、さりげなくその場を離れ人から見えないところで涙と鼻水を一生懸命拭き、眼を乾かし、その絵の前にはもう戻らなかったのです。

鑑賞する間も無く一目見るなり涙が出たので、絵の詳細は分からないのですが、ルノワールの絵で、白い服を着た女の人が正面を向いた半身像で、胸に白い花を付けていたと思います。帽子はかぶっていなかったように思います。何より、全体的に白い絵だったという印象があります。

その美術館にはそれっきり行っていませんし、その絵が何だったのか未だに分かりません。図書館でルノワールの画集を開いてみたり、インターネットが出現してからはネットで探しもしましたが、それらしいものは見つからないままです。

それでも、私の人生でちょっと突出した出来事だったので、折に触れてあれは何だったのだろうと考えました。あの白い絵が微小なエネルギーを発していて、自分の中にある何かと感応したというのが納得できる解釈でした。私の胸にも絵と同じように無垢な白い花があると想像していい気持にもなりました。が、残念ながら(チェコ好き)さんのいう、“ メッセージ” を発している絵や作者に心が向かず、自分の心の反応だけを見て自己満足の中にずっと留まっていたのです。

そして、ひと月前に(チェコ好き)さんの記事に出合いました。自分の体験が認められたようで、まずは嬉しかったのですが、それと同時に残念でならないという気持ちが、やっと起こりました

あの涙が出た瞬間は、私の審美眼の開眼の瞬間だったのです。確かにそうでしょう、わかります。涙をふきふき見続けていれば、きっと絵が生き生きと私に語りかけたでしょう、そして私は自分をもっとよく知ることができたでしょう。それなのにその場を逃げるように離れてしまったのです。

も、でも、ここまで書いて、なんか分かってしまいました。

絵の前から離れたことが残念でならないと書いたことで、その残念さに本当に胸がじりじりするのを感じ、それから気が付きました。あのとき自分は逃げたんだなと。見たくなかったんだと。そこに見たい自分が無いことがわかっていたんだと。

こういう展開になると、本当は完全に違う構成で書き直す方が一貫性があると思いますが、今は到底そんなことができるとは思えないので、このままにします。でも、もう考察を進める気もなくなっちゃいました。

で、話を戻すと、勇気が無かったのね。

願わくば、もう一度、あの魔法のような瞬間が訪れますように。そのときのために、私は心を澄ませて生きてゆきましょう。勇気とタオルを持って。

これで終わりにします。(チェコ好き)さん、ありがとう。






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